八木 良太

個展 “Saying” フライヤーより

例えば、見たことのない果物(らしきもの)が目の前にあるとする。そして私はその切り方を知らない。冬木の作品はそういう状況に似ている。
私も含め多くの作家は限られた領域の対象物に、さらに切り口を用意して作品を見せる。しかし冬木は現実世界を切り口を用意せずにすべてを開いた状態で提示する。だから、一見どこからどう見れば良いのか戸惑ってしまう作品が多い。彫刻の断面が3次元の中にしか存在しないと仮定するならば、問題はそう複雑ではない。しかし現実世界はもちろん時間、あるいは香り、ときに笑いのように多くの構成要素によって出来上がっている。それを表現しようとするならば、タテヨコナナメは、いささか単純すぎる。冬木は彫刻からはみ出たこれらの諸要素を丁寧に拾い上げて作品化し、豊かな経験へと変化させる。

彼から「半年前の雨」を貯めた作品があることを聞いた。けれど私がそのことを聞いたのは半年以上前だったから、いまでは少なくとも「1年以上前の雨」になっている。
また「Capricious wall」は、雨の壁を作るための非常に大きな建物のような作品だが、雨の日以外はそれを見ることができない。(実際私が見たときは晴れていた)
私たちは1年以上前に降った雨について、降っていたであろう雨によってできた壁について、作品を通じて思いを馳せることができる。
そして、ときに冬木の作品はこれ以上ない程に単純な形で提示される。
見た目は同じだが異なる重さの2つの球の「Two balls of different weights」。また、同じ構成物を「柔らかいもの」と「横たわるもの」にした「Softs」と「Lays」。
球を持たなくても、ヌイグルミの柔らかさを確かめなくても、想像で補うことが出来る。そうすることで、頭をトンと突かれてあたりまえのことにもう一度気付かされる。

冬木は巧妙に作品の芯を目や手の届かない奥に隠す。そして、全てのあたりまえを想像力をもって疑えと私たちに警告する。だから目の前にある作品を見て戸惑うのは、正しい反応なのだ。立ち止まることは時間を無駄にすることではない。