荻野 瑞穂

個展 “Saying” を見て

冬木遼太郎の作品はブッキラボウなところがある。つまり、僕たちが予備知識を持たないところは、まるでその辺りですれ違う他人のようであり、僕たちが感覚をフル活動させて応じなくてはいけないところは、まるでその辺りで出くわす事物のようである。だから彼の作品について何か言おうとすると、どうしてもある種の難解さについて触れざるをえないのだが、それはけっして彼の作品が複雑だからではないのだ。実際のところ、冬木の提示する形や方法はとてもシンプルだ。シンプルなのに何が複雑なのか。先日、僕が彼の作品「Radio clock and dust」を観たあとに書いたメモを短く編集して紹介してみよう。それすれば僕の感じたことがもう少し具体的に伝わるかもしれない。

諸々の詰まったゴミ袋が三つとその間に立てかけられた壁掛け時計、そして上部が切り落とされた観葉植物がそれらに寄り添うように置かれている。以上、ゴミ。いやいや、ゴミにしては素っ気なさすぎる。透明のビニル袋のなかに詰め込まれたエポキシや金網といった内容物に過重があるのかもしれない。生活のゴミじゃない、何かしら構造物の断片、おそらくかつて彫刻だったもの。ゴミは台座に置かれていた。ならばゴミ自体を彫刻として一歩下がって眺めてみるのもよい。ピンとこない。ゴミ袋はまさにゴミ袋なのだ。彫刻のようにも思えるが、置かれ方の印象が強すぎる。思考の痕跡というよりはゴミ、かつて成長しいまや切り捨てられた思考の断片。時計。あの時計にはぜんぜんアナログ感が感じられない。無造作でありきたりな時計は、壁掛け時計という公共的な機械であるという理由以上に、特定の誰かの時間を刻んできた様子がない。時計というものは意外に指示性が強い、所持者個人の時間や場所の歴史などを刻み付けられている印象があるが、あの電波時計にはそこが決定的にかけている。アナログ時計然とした外装に騙されることなく、デジタル信号受信機の存在をあの時計のなかに感じ取るのだろうか。そんなわけはない。

まったくまとまりがない文で失礼だが、まあ、僕の頭の中はいつもとっ散らかっているのでそこは致し方ない。僕は現代美術と出会ってからもうすぐ20年になるが、どうやって作品を鑑賞をすればいいのかいまだによくわからない。仕方がないので何かしらの引っかかりを言葉にして持ち帰り、時おり引っぱり出しては反芻する。そして冬木の作品は、たいていしばらく食べつけていなかった牛肉のように消化に手間取る。現代美術というのはゲテモノのようなイメージもあるが、そのほとんどは読み方さえ知ってしまえば見た目ほど奇妙ではない。僕たちは安全に料理されたものを鑑賞することに慣れていて、冬木の作品のように無作法なもの——作法から自由でいることは恐ろしく難しい——に出くわすと狼狽える。彼の作品を難解に感じるのは、現実にあるものに僕たちが常に接するのと同じ目線で、作品にも接することを促されているからなのだ。言い換えれば、僕たちがすべてのことを知ることはできないという、ごく人間的な知性を土台とした鑑賞をせざるえないということだ。普段僕たちは、現実のもののほとんどを無視して生きている。家族や友人であれ、通行人やお店の従業員であれ、それらの人々と自らの関係においても、あるいはいま立っている場所や住んでいる町、天気や季節といった自らが置かれている状況においても、僕たちの認識はおおざっぱで曖昧なままだ。たった一つのことですら、生のままで味わおうとすると無限に近い労力を強いられてしまう。

観客を現実に陥れて戸惑うようにしむけておいて、したり顔のアーティストはいくらでもいる。僕が強調しておきたいのは、冬木の態度はそのまったく逆で、むしろ誠実なアーティストと呼ぶにふさわしいものだということだ。現実とどうやって向き合っていくかという人間的方法に真摯に取り組み、彼自身への問いとしての、そして僕たちへの問いとしての作品を作り上げている。つまり、俯瞰する視点からものを見るのではなく、彼の作品の前で僕たちが置かれるポジションと同じ現実のなかに立ち、彼自身の目で世界を認識する努力をする、冬木はそういうアーティストなのだ。そこでは、大きさ、固さ、重さ、長さといった空間的な視点から記憶や関係性などの社会的な視点まで、あらゆるもののはかり方が僕たちに提示されている。特定の誰かによる思考の断片としてのゴミと、不特定の人々によって共有されるために標準としてコントロールされている電波時計。「Radio clock and dust」の組み合わせは僕にOSの有り様を思い起こさせた。誰にでも共有可能なプラットフォーム上でなされる個人的なプロジェクトの数々がトラッシュボックスから覗いているような、本当に削除しない限り、もう一度デスクトップに並べ直すことも可能だが、たいていの場合は削除してしまう、あれらの構造にどことなく似ている。OSがコードをビジュアルに翻案してくれることで僕たちにコードの操作を可能にしてくれるように、冬木は観る者がこの限りない世界をいかにして見ることが可能になるのか、その方法を示そうとしている、のかもしれない。

もう一つ付け加えておくと、冬木は彼の作品がどのような社会や場所に置かれようと拘泥しないようなところがあって、その姿勢自体にもポジティブな問題意識を感じ取れる。まるでコンピュータが電源と回線さえあればインターネットに接続できるように、冬木の作り出すプラットフォームには、ちょっとした関係性と環境さえあれば実現できるようなモビリティとバイタリティが備わっている。徹底的に管理された場所や関係性のなかで一瞬可能になる儚い完全性を追うより、継続可能で様々な展開の可能性があるプラットフォームの構築をよしとする。言い換えれば、個別の作品で100点を出すことは重要ではないということだ。完全にコントロールされた作品は、観る者にたいして信を置いていないのと同じことだからなのだろう。徹底して考え抜かれたプラットフォームを通じて出力されたプロジェクトとしての作品は、たいてい無造作に置かれる。そうして提示された作品が仮に70点に感じられるとしても、残りの30点は観る者が補うのだし、むしろその方がよい。ヒトは多くを共有できると同時に多くのことを理解し合えないからであり、いずれにせよすべてのことを知ることはできないからだ。そして——おそらくこれがもっとも重要なことに——、どこにいつどうやって置かれるかによって、この残された幅はそのまま作品の機能が変化する余地にもなっている。レディメイド作品の成り立ちと同じように、このことは彼の作品が現実そのものであることの証左といえるのではないだろうか。